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2010年10月 1日 (金)

「俺」という存在(3/5)

 
入院までは、まだ一週間ある。こんなにまとめて有給休暇を取った事はなかったので、何をして過ごせば良いのか見当もつかなかった。
(旅行をしようか?)
以前、部長が温泉旅行も良いとか言っていたのを思い出した。
あの時、賀茂医師が止めたのは「温泉」というキーワードだったのだろう。
気が付かずにブラジャーをしたまま男湯に入っていたら、ひと騒動になる様子が目に浮かぶようだ。
温泉に入らないとしても、箱根あたりをぶらつくのも良いかな?と思った。
ネットで宿を予約し、小田急線の特急に乗って、一路箱根へと向かった。
高層ビルの立ち並ぶ都会から、車窓に田園風景の広がる頃には、気分もゆったりとして、眠気も催してきた…

 

気が付くと、俺は湯船に浸かっていた。
狭い内風呂ではなく、温泉旅館の大浴場だった。湯船には大量のバラの花が浮かべられていた。
厭な予感がした…
幸い、風呂場には誰もいない。俺は湯船を飛び出ると脱衣所に向かった。
予感は的中したようだ。
反対側のガラス扉に掛かった暖簾には、赤い文字で「女」と染め抜かれていた。
今は他の宿泊客と顔を合わせないうちに、ここを離れるしかない。幸いにも、入浴していたのが俺一人だったので、浴衣の入っている脱衣籠は一つしかなかった…

この旅館では女性客には宿名の入った画一的な蒼い浴衣ではなく、数種類の綺麗な柄物の中から選べるようになっていた。
下着を着け、金魚の柄の可愛らしい浴衣を着た。もちろん、女の浴衣の着付けなど知る筈もない。前をあわせ、帯を巻き、蝶結びで留めた。
ルームキーに刻まれた部屋番号を確認し、人目につかないようにして部屋に潜り込んだ。
荷物を確認し、確かに俺の部屋だと確認できて、ようやく一息つけた。
窓際に置かれたソファにぐったりと腰を降ろした。

窓の外には都会では見られない「自然」があった。木々が生い茂り、山が眼前に迫っている。空の色も違うように見えた。

 

気が抜けたのだろうか、再び記憶が飛んでいた。
俺の眼の前にはお膳が並べられていた。
既に食べ終わったのか、腹は十分に満たされていた。しかし、膳の中の料理は、少しづつしかつままれていなかった。
普段の俺であれば、全て食べ切っている量である。が、残りに手を付けようとしても、胃がもう受け付けてくれなそうだった。
胃の大きさまでも女並みになってしまったのだろうか?と思ったが、その時になり、ようやく腹を締め付ける帯の存在に気付いた。
俺は女の浴衣をちゃんと着付けていた。もう一人の「俺」が目覚めて、着付けをしたのだろう。
鏡に映してみる。確かに、金魚の柄は俺に似合っていた。

 

 
風が髪の毛を揺らしていた。
気が付くと、俺は芦ノ湖の遊覧船の上にいた。
化粧をしているのは即に判った。更に、スカートを穿き、ストッキングを着け、ハイヒールを履いた完全女装である事も判った。
膝の上にはハンドバックを抱えている。中をあらためてみたい気もしたが、今ここでそれをすれば、不振がられる。
船が着き、他の乗客と一緒に降りてゆくと、待合室のある建物を目指した。トイレ…この姿である。躊躇しつつも女性用の方に行った。
大きな鏡に自分を映してみた。
肩まで伸びた髪の毛。耳にはイアリングをしている。服や化粧以外にも変わった所が確認できた。
これでは、どこから見ても「女」にしか見えない。
ハンドバックの中には化粧品、ハンカチ、ティッシュ、そして女物の小銭入れまで入っており、完全に女のバックの中身になっていた。

外見は変わろうとも、俺は「旅行」に来たのだ。観光をするのに外見を気にする事もないだろうと割り切る事にした。
近くに水族館があったのでまずはそこから観光を始める事にした。

慣れないハイヒールで足が痛くなってきた。早めにレストランに入り昼食とともに足を休める事にした。
窓からは芦ノ湖が一望できた。カップスープを飲みながら、湖を行き交う遊覧船を眺めていると、時間の経つのも忘れてしまいそうだった。

肉体の変化は様々な所に及んでいた。
胸の膨らみにばかりを気にしていたが、カップを持つ指はかなり細くなっている。爪に塗られたマニキュアが白い指に映えていた。
舌もまた繊細になっているのだろう。スープの味が格段に美味しく感じるのは、シェフの腕もさることながら、俺の舌がその違いを感じ取れるようになったという事だろう。
早めのお昼という事もあるのだろうが、昨夜と同様に俺の胃は、即に満杯となっていた。
コーヒーとデザートのケーキが出てきた。何故か、甘いものはすんなりとお腹に入っていった。
コーヒーはこの舌には随分苦く感じた。ブラックで飲む事は断念せざるを得なかった。

足の方も幾分か回復したようで、午後の美術館巡り…まあ、この足だと1~2館くらいだろうが…に出発する事にした。
出かける前に化粧を直すためにトイレに向かった。ついでに小用を済ませ、鏡の前で口紅を塗り直した。意識していなかったが、体が覚えているのか自分で意識してやろうとした時よりも、手早く綺麗に仕上がっていた。
外に出ると、美術館巡りのレトロ調のバスが止まっていた。無料だという事なので、運転手に軽く会釈して乗り込んだ。
バスは木々の中の小径を進み、小さな洋館の前に止まった。ガラス工芸品の美術館らしい。入ってしばらくするとショーの開演時間だとアナウンスが入った。館内の客達が広間に集まっていった。
並べられた椅子に座る。
ガラスを鳴らす音がメロディを奏でていった。
心地良い音色が眠気を誘う。
意識が途切れる不安もよぎったが、俺は肉体の欲求に任せるしかなかった…

 

 
俺は旅館の部屋に戻っていた。
机の上に美術館のパンフレットが開かれていた。俺が考えていた以上にもう一人の俺は精力的に巡ってきたようだ。
お茶を入れ、置いてあったお菓子を食べながらパンフレットを眺めていた。

「俺」は…この俺の意識の中では、いまだ行ったことのない美術館もあった。
が、パンフレットを見ていると、写真とは別の角度からのイメージが浮かんできた。
回廊を通った時に聞こえた音が、頭の中に再現される。
俺の頭の中に、もう一人の「俺」の記憶が展開されているのだ。

俺の記憶の隙間を埋める、もう一つの記憶…俺ではない俺が行ってきた行為がはっきりとしてくる。
記憶としての一貫性は生まれてきたが、今度はどれが本当の「俺」の記憶かが判らなくなってきた。

(気晴らしに、お風呂に入ろう♪)
俺は立ち上がると、タオルを手に大浴場に向かっていた。
何の躊躇もなく、女湯の暖簾を潜っていた。浴衣を脱ぎ、脱衣籠へ…脱いだ下着は見えないように浴衣の間に挟んでおく。
タオルを手に浴場に…今日は既に何人か入っていた。オバサン同士の旅行なのだろう、俺の事など一切気に掛けずに話し込んでいた。
俺は彼女等よりも遥かに瑞々しい肌に掛け湯をして、彼女等の脇を通り、露天風呂に向かった。

山の木々と青い空、そして体を温める温泉の湯の中で、俺は全てが解放されたような清々しい感覚に浸っていた。
俺ともう一人の俺。俺の内に二つの人格が共存していると言う。
俺の肉体は第二の人格に引きずられ、大きく変貌していた。
やがて二つの人格は統合されると言う。既に、抜け落ちていた第二の人格の記憶が補完されている。
今は、第二の人格が何を考え、どう行動しようとしているかは知る由もない。

 
(受け入れてしまうと楽になるわよ♪)
賀茂医師の言葉が思い浮かんだ。
二ヶ月後には「俺」は死ぬ。これまで生きてきた「俺」という存在は失われてしまう。
が、人格の統合された俺は、この先も生き続けるのだ。新らしい姿で新たな人生を送るのだ。
それで良いじゃないか。
新しい「俺」を受け入れてやろうじゃないか!!

そう決意した俺の意識は、気が付くと暖かな湯の中に溶け出したようにフェイドアウトしていった。

 

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